指定文化財1(国・県指定分)

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ページ番号1002988  更新日 2023年3月6日

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護国八幡宮(建造物)

写真:護国八幡宮

養老2年(718年)に福岡県、宇佐八幡宮の分霊を勧請したことに始まったと伝えられる。
天平時代には越中国守大伴家持が国家安泰、五穀豊穣を祈願した。また、寿永2年(1183年)5月、源平倶利伽羅合戦において木曽義仲が戦勝を祈願し、牛の角にたいまつをつける奇策「火牛の計」をもって平氏の大軍を破ったとされており、それ以後武田信玄、佐々成政ら多くの武将の信仰を集めた。
現在の社殿は江戸時代に建てられたもので、手前から拝殿、幣殿、釣殿、本殿と4つの建物で造られている。本殿は慶長5年(1600年)大聖寺出陣の際に前田利長が戦勝を祈願し、戦後その報賽として寄進、釣殿は慶長16年(1611年)利長が高岡城で病気の折、平癒祈願として利常が寄進、拝殿・幣殿は正保3年(1646年)利常夫人の産後平癒のため寄進された。

本殿:三間社流造、三つ斗組(桃山時代の様式)
釣殿:両下造(江戸初期の様式)
幣殿:背面入母屋造り(江戸初期の様式)
拝殿:千鳥破風(江戸初期の様式

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加越国境城跡群及び道(松根城跡)

写真:加越国境城跡群及び道(松根城跡)

金沢市との境界に位置する山城跡。金沢市の桐山城跡、両城を結ぶ道の小原越とともに指定。加賀・越中を舞台とする前田方と佐々方の攻防や街道と城跡の関係を考える上で重要な遺構群である。

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浅地神明社本殿(建造物)

写真:浅地神明社本殿

貞観年中(859年〜876年)の勧進により始まったと伝えられる。天正13年(1585年)豊臣秀吉の越中侵攻の際、佐々成政の家臣佐々平左衛門が焼却し、その後江戸時代初期に現存している建物が建てられたという。
室町時代の様式を伝える神明造としては富山県内で最も古いものに属するが、向拝屋根をつけて流造のようにしたり、細部に技巧を凝らしたりしており、地方の神社建築としては珍しいものである。

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木造阿弥陀如来立像(彫刻)

写真:木造阿弥陀如来立像

鎌倉時代初期の作と考えられるが、大きくて優しい顔立ち、ふくよかな体つき、刻みの浅い衣服の表現など平安時代末期の様式を伝えている。杉材一木造。

逸話:奥能登にあった光村の海中から現れたと伝えられ、背面には貝殻のついていた跡があるといわれている。

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木造男神坐像(彫刻)

写真:木造男神坐像

衣冠姿の坐像で、手に笏を持つ。応神天皇像(右)と仲哀天皇像(左)と伝えられている。冠の巾子の幅が広く、顔面は割合に大きい。県内では高岡市射水神社、婦中町杉原神社の神像に次いで古いもので、ともに鎌倉時代の作である。檜材一木造。

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木造阿弥陀如来立像(彫刻)

写真:木造阿弥陀如来立像

平安時代末期の様式を伝え、眼をはじめ頭部の正面や眉間に水晶をはめ込んで実感を出している。また、衣服の皺や裾の表現などが写実的である。桜材一木造。両手足嵌込・螺髪は切付、両手は来迎印(上品下生)を結ぶ。一面に金箔押しされていたようで、両手足・衲衣・袈裟に跡が見られる。鎌倉時代中期の作である。

逸話:本像は、もとは小矢部市平桜の光西寺掛所に安置されていたが、掛所が台風で破損したのを機に光西寺へ移された。

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銅造阿弥陀如来坐像(彫刻)

写真:銅造阿弥陀如来坐像

医王院の裏にある若宮古墳付近から出土したものと伝えられているが、衣服や円形に近い顔面の様相などから、平安時代末期の作と考えられており、特に台座の蓮弁の並べ方は藤原時代特有のものである。
一面にすり減っており、目鼻立ちははっきりしていない。円形二重台座上に敷茄子を置き、蓮華上に結跏趺坐し、法界定印を結ぶ。本来は観音像・勢至菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊像であったと思われるが、現在両脇侍は蓮茎が折れて存在しない。
明治時代の神仏分離の際に、護国八幡宮から医王院へ移された。

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木造僧形八幡神坐像(彫刻)

写真:木造僧形八幡神坐像

地蔵尊のようにも見えるが、両手の袖口の反転、腰から下を省略していることなどから、はじめから僧形八幡神の御身体として製作されたものであることがうかがえる。平安時代中期から末期の様式を伝える鎌倉時代初期の作品である。明治時代の神仏分離の際に、護国八幡宮から移されたもので、現在も護国八幡宮にある2躯の男神像と対をなしていたらしく、八幡神像そのものと考えられている。

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木造僧形神坐像(彫刻)

写真:木造僧形神坐像

僧形神像(左)
鎌倉時代末期の作で檜材一木造である。円頂僧形に法衣を着し、五条袈裟をかけ、結跏趺坐の姿勢を示す。背面に幅3センチメートル、高さ5センチメートル、奥行5センチメートルの穴があり、仏舎利を納入していたものと思われる。両手首は差し込み式で、左手に数珠、右手に塵尾を持っていたようであるが、今は失われている。

地蔵形神像(右)
南北朝時代の作で桂材一木造である。延命地蔵の姿を示し、右手に錫杖、左手に宝珠を持つが、錫杖は失われている。僧形の十禅師権現の本地物である地蔵菩薩を表示したものらしいが、腰から下を完全に彫刻しないという神像の特徴を示しており、神社に祀るために製作されたものと思われる。

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宇多国宗 天文六年二月日(工芸品)

写真:宇多国宗

銘文(表)宇多国宗(裏)天文六年二月日

刀身が柄から抜け出ないよう留めるための「目釘穴」は1つ。「樋」と名付ける細い溝が刀身の表裏に刻まれており(俗に血溝と呼ぶ)、その形式は「棒樋・掻通し」。鍛は「板目肌」、刀紋の種類は「互の目」、彫り物がある。外装は「白鞘」である。
宇多派は、文保(1317年〜1319年)の頃、大和国宇多郡から越中国吉岡庄三日市に移住した国光を祖とし、小矢部川流域に栄えた一族で、国宗は南北朝時代から江戸時代まで名が継がれている。

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埴生護国八幡宮文書(古文書)

写真:埴生護国八幡宮文書

源義仲、遊佐慶親、佐々成政、前田家などの文書が残されており、その中でも加賀藩関係のものが多く、護国八幡宮と加賀藩の関係が深かったことがうかがえる。

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宮永十左衛門の墓(史跡)

写真:宮永十左衛門の墓

宮永十左衛門は、享保17年(1732年)1月、砺波郡下川崎(現小矢部市)に生まれ、幼名を幸次郎、のちに「正運」または「心外庵」、「桃岳」と号した。
32歳で家督を継ぎ、加賀藩より砺波・射水両郡の蔭聞横目役及び山廻役を命じられ、さらに砺波・射水・新川三郡の産物特許役も勤め、地方農業の開発に従事し、養蚕法の改良や薬草栽培に尽力した。天明の大飢饉では、代用食品157種を調査し、窮民の救済に功績があった。性格は謹厳篤実で、一面、和歌・連歌・俳句・詩文・禅学・茶事等に精通し、その著書として「養蚕私記」、「私家農業談」、「越の下草」、「春の山路」などがある。

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若宮古墳(史跡)

写真:若宮古墳

昭和34年に発見され、昭和60年の調査により、全長約50.0メートル、前方部幅約19.0メートル、後円部径約28.0メートル、前方部高約4.4メートル、後円部高約5.6メートルの前方後円墳であることが確認された。出土した須恵器と円筒埴輪から、築造時期は6世紀初頭と推定される。

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宮島峡一の滝とおうけつ群(天然記念物)

写真:宮島峡一の滝とおうけつ群

小矢部市管内の子撫川流域で小瀑をつくっている。小さな窪みに石ころが入りこみ、水の流れで回転しながら削られた「おうけつ(甌穴)」という丸い窪みが大小約20箇所あるが、珍しい地質現象であり、学術上貴重なものである。

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興法寺のハッチョウトンボとその発生地 附興法寺のトンボ類の群生地(天然記念物)

写真:ハッチョウトンボ(メス)
ハッチョウトンボ メス

ハッチョウトンボは主にアジア南部、台湾、日本では青森県以南に生息する学術上貴重なトンボである。また、この地区は湿地帯植物の繁殖地でもあり、他のトンボ類も多数生息している。
日本で生息する不均翅類の中では最も小型なトンボで、体長は約2センチメートル程度である。雄は未成熟期は橙色だが、成熟すると紅赤色となり、斑紋はほとんどない。雌は腹部が太く、褐色と黒色や黄色の斑紋がある。

写真:ハッチョウトンボ(オス)
ハッチョウトンボ オス

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旧宮島村役場

写真:旧宮島村役場

大正15年に旧宮島村役場として建てられた洋風建築物。昭和61年に現在の場所に移築された。

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旧大谷家住宅

写真:旧大谷家住宅

名誉市民の大谷米太郎・竹次郎兄弟の生誕地に、昭和10年(1935年)に米太郎氏が立て直した住宅。砺波地方に多く見られる瓦屋根切妻妻入りの「アズマダチ」という農家建築様式でつくられている。

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