指定文化財3(考古資料・歴史資料・無形文化財・無形民俗文化財・有形民俗文化財)

乗永寺五輪塔(考古資料)

(写真)乗永寺五輪塔

 砂岩製で、上から1番目の「空輪」と2番目の「風輪」が1つの石からできており、その間に15〜20ミリメートルの欠首がついている。また、上から3番目の「火輪」の背が高く、かつ屋根の反りが急である。
 五輪塔は平安時代末期頃から作りはじめられ、密教の宇宙の根本要素である「地」「水」「火」「風」「空」の五大を方・円・三角・半月・団形の五輪図形に塔婆化した、日本独特のものである。乗永寺五輪塔は14世紀頃(鎌倉〜南北朝時代)の製作と推定されている。

逸話:昭和49年、金屋本江地内で土砂採取中に、地下約150センチメートルのところから2基の五輪塔が出土した。県内でも古い部類に属し、保存状態もよく、乗永寺に寄進・供養された。

桜町遺跡出土品(考古資料)

(写真)桜町遺跡出土品

 桜町遺跡から出土した縄文時代の遺物1,564点、弥生土器2点、古代の墨書土器34点の合計1,600点が指定されています。
 縄文時代の遺物の内訳は、縄文土器178点・石器841点・土製品62点・木製品469点・繊維製品11点・植物3点です。遺物の中心時期は、縄文中期末〜後期初頭(約4,000年前)ごろと後期末〜晩期(約3,000〜2,300年前)ごろのものがありますが、数多く出土して注目された木製品などは、ほとんどが約4,000年前のものです。

若宮古墳出土品(考古資料)

(写真)若宮古墳出土品

 6世紀初めごろに築造された前方後円墳の若宮古墳(県指定史跡)から出土した遺物のうち、17点が指定されています。
 若宮古墳を特徴づける埴輪や、埋葬部で見つかった大刀、大刀の飾りとして用いられたと見られる三輪玉などが注目されます。

銅製仏具と珠洲収納壷(歴史資料)

(写真)銅製仏具と珠洲収納壷

 大正5年(1916年)に北蟹谷地区から出土した壷と、その中に収められていた銅製の仏具4点です。
 壷は、能登半島で焼かれた珠洲焼で、13世紀初頭ごろに作られたものとみられます。
 銅製の仏具には、香炉・花瓶・燭台の三具足と、引きんが各1点あります。これらの細かな製作年代はわかりませんが、おおよそ14世紀ごろに作られたものと推測されています。

沼田太郎右衛門高信碑(歴史資料)

(写真)沼田太郎右衛門高信碑

 沼田太郎右衛門高信は、上野国 沼田の庄より越中に来て、勝興寺の寺主 顕幸に招かれ、安養寺の城を守るようになった人物である。越後の上杉謙信や佐々成政、石黒左近らと戦い、数々の戦功をたてた他、三ヶ村用水を掘るなど、蓑輪村の開拓にも尽力した。
 この石碑は沼田太郎右衛門高信を顕彰する碑であり、その子孫の高友、道友、長秀、秀陳、建碑者秀友の事跡をも記したものである。731文字の漢文体で綴られており、本格的な石碑としては県内最古級のもので、享保18年10月16日(1733年)に建てられた。

雅楽(無形文化財)

(写真)雅楽

 小矢部市に雅楽が伝えられたのは、天保元年(1830年)末友村の西教寺住職 木場深泰(周海)が東本願寺に出仕の際に、京都の天王寺楽所、南都学所、京都学所等の楽師から雅楽の妙技を伝授され、郷里にこれを持ち帰り、蓮沼村の光明寺住職 家山法交や、加賀谷四郎らとともに、埴生・松沢・水島の同志を募り指導したことにより始まった。
 法交は龍笛、四郎は笙、深泰は篳篥を担当し、当時の真宗王国北陸での民間活動としては非常に珍しく貴重な存在であった。
 木場深泰の没後、雅楽は一時途絶えかけたが、和沢の上山長平、福上の林栄太郎、胡麻島の浦田菊次郎らが中心となり、蓮沼に残った同好者と雅楽を再興した。のちに河原松義、片山稠松、吉田与一郎、野手善作、米永金太郎、高橋覚了、高勇専、須加勧道らが加わり、日々練習に励むとともに宮内省より楽師を招請し、指導研鑽の機会を得、会の名称として「洽聲會」を授かった。また、福岡町の川島静哉(又四郎)が雅楽の同好者として結成した「洋遊会」など、他雅楽団体との交流を深めていた。
 その後、しばしば北陸雅楽講習会に出席して技術を磨き、宮内省楽師から平調の五常楽急、越殿楽の曲目について会員が免状を受けている。また、宮内省式部職の楽師を度々招請したり、東京や京都で管弦や舞楽の指導をうけたりなど技術的に高度な域に達している。また、継承者の指導育成にも取り組んでおり、市内外の文化的行事や国際交流事業等でも積極的に公演活動を行っている。

源氏太鼓(無形民俗文化財)

(写真)源氏太鼓

 寿永2年(1183年)、源平倶利伽羅合戦で木曽義仲の先導を承った蟹谷郷の蟹谷次郎が戦勝を祝うために酒宴を催した際、部下の侍たちが歓喜勇躍のあまり乱舞しながら太鼓を打ち鳴らしたことに始まったと伝えられている。
 蟹谷氏は合戦後、下後亟に移り住み、地方開拓に従事し、八講布晒しの技術も農民に伝えたという。
 現在は毎年9月10日に行われる秋祭り(風祭り)の際に、下後亟神明宮で奉納されており、豆絞りの鉢巻に法被、黒のたっつけ袴、白の手甲・足袋という揃いの衣装で、笛の音に合わせて踊りながら、五穀豊穣・順風慈雨を祈って長さ3.28メートル、胴回り3.57メートルの太鼓が打ち鳴らされる。
 種目には、太神楽(祭日等に神前で終日打ち鳴らす鼓目)、踊る道中大神楽(遷座または供物を一緒に道中する際の鼓目)、でんでこ曲打(源平倶利伽羅合戦の戦勝を近郷に知らせるために早打ちして踊るように打ち鳴らしたとされる鼓目)、酒踊る道中曲芸(源氏の戦勝を祝い、酒を飲み交わし踊り伝えられた鼓目)、音上り、囃子、祈願太鼓がある。

酒とり祭(無形民俗文化財)

(写真)酒とり祭

 神事・獅子舞奉納のあと、その年の厄男たちが褌一つに白鉢巻という勇壮な姿で、太鼓を合図に大鳥居から神殿に駆けつけ、神官の酌み出す御神酒を杓や椀に受け取り、競って参道の見物人に強引に飲ませる。これを何度も繰り返し、最後に境内一面に酒を撒いて神事が終わる。
 この祭りがいつ頃から行われるようになったのか詳細は不明であるが、300年以上前から続いていると伝えられており、不慮の災厄が続いたとき、神籤により、祭礼に大量の御神酒を供えて振る舞えば無病息災・五穀成就との神示を受けたことに始まったとされている。

逸話:明治2年頃、酒を撒くのはもったいないと、みんなで車座で酒を飲んだ年に不作や火災が起こったので翌年からまた再開されたと伝えられている。

願念坊踊(無形民俗文化財)

(写真)願念坊踊

 踊りの起源は奈良時代に遡り、仏教の布教にともなって始まったとされている。
 当地に伝わったのは、天正8年(1580年)、織田信長と石山本願寺(大阪)との戦い(石山合戦)の講和が成立した際、長い間戦いに苦しんでいた門信徒たちが祝宴を開き、喜びのあまり乱舞した様子を、戦いに参加した門信徒が帰郷して踊り伝えたものといわれている。
 墨染の法衣をまとい、ねじり鉢巻になわ帯をして、手甲、脚絆に草履ばきの坊主が、二重のかさの上に御幣を飾り、かさのめぐりに赤や青の幕を吊して造花をつけ、棒に「願念坊主」「天下泰平」「豊年満作」と書かれた行灯がついた「ダシ」を持ち、その後に同じ法衣を着た坊主達と、長襦袢に白鉢巻、手甲、脚絆に相撲の化粧まわしのような前かけ姿の数名の男の踊り手が出て鉦・太鼓・尺八・三味線・胡弓の囃子にのって身振り面白く踊る。
 綾子の願念坊踊は明治時代に一時中断されていたが、有志が保存会を結成して復興につとめ、昭和59年富山県郷土芸能保存団体の指定を受けている。

護国八幡宮 宮めぐりの神事(無形民俗文化財)

(写真)護国八幡宮 宮めぐりの神事

 源平倶利伽羅合戦に大勝した木曽義仲のお礼参りの様子を再現したもので、江戸時代から伝えられている珍しい行事である。
 金箔地に義仲の日の丸の馬印と御幣をつけた長さ4メートルの道祖幣を持った氏子の長老を先頭に、烏帽子に狩衣姿、道中袴をはいた御幣奉持者、社宝の古文書箱を手にした紋付き袴姿の5歳以上の男児数人、甲冑に身を固めた武者姿の青年団が隊列を組み、笛や太鼓の囃子に合わせて拝殿外側の広縁を7回半めぐり、最後に武者達が弓や刀を振りかざし、鬨の声をあげて本殿に駆け込むという神事である。

津沢夜高あんどん祭(無形民俗文化財)

津沢夜高あんどん祭

 小矢部市南東部の津沢地区で、毎年6月第1金曜日と土曜日に行われる祭りである。かつては6月10日、11日の「植付け盆」「ヤスンゴト」と呼ばれる日に、五穀豊穣、豊年満作を願う「田祭り」の行事として行われてきた。現在は、11の自治会が参加して行われており、各自治会で制作された大・中・小の行燈が津沢市街地で練り廻される。練り廻し終了後には、大行燈を有する自治会により、大行燈同士を1対1でぶつけ、壊し合う「ぶつかり合い」が行われる。 

 その成り立ちについては、砺波地域に広く分布する「田祭り」の行燈行事に、神事である福野夜高祭の「御神燈」の大行燈が取り入れられて大型化したものと考えられる。聞き取り等の調査では、少なくとも明治時代には津沢のまちなかで複数の町や村の行燈を曳く大人同士の喧嘩があったとの証言があり、まちなかにおいて多くの町や村が参加して大規模に行われる「都市型祭礼」の田祭りの中では、砺波地域で最も古くから行われていたものと推定される。

石動の曳山(有形民俗文化財)

(写真)石動の曳山

 高岡の御車山を模して、宝暦年間(1751年〜1763年)から安政年間(1854年〜1860年)にかけて建造された花山車。4月の愛宕神社の春祭りに各町内から曳き出され、小矢部市内を曳きまわされる。
 主に、木組は能登・加賀の大工、彫刻は井波の彫刻師、塗りは城端の塗師、金具は高岡の彫金師が製作。
 曳子は、町内ごとに揃いの模様や紋をつけた法被に、股引、白足袋、ねじり鉢巻という服装で花山車を曳きまわす。
 花山車はそれぞれ大きさ・構造が違うが、径1.3〜1.4メートルの木製車輪に、幅1.5〜1.6メートル、長さ2メートル、高さ60〜70センチメートルほどの欅材でつくった框をのせ、その上に斗拱出組で積み重ねた上に舞台があり、それに勾欄を設けて祭神を祀り、背後に鏡板という衝立をおく。祭神の傍らには3メートルほどの木柱を立て、30本あまりの竹に紙製の菊花をつけて笠形につりさげ、柱の上に鉾留の「だし」を取り付ける。
 斗拱の上の梁や長押は二重又は三重のものもあり、彫刻に極彩色を施したり、梁や長押などに金具を打って装飾した花山車もある。
 框の外側には種々の模様を染めたり、刺繍を施した幔幕をつるし、框の下には花山車を曳く2本の轅棒がある。框の中には笛・太鼓・鉦(カネ)の囃子方が入り、拍子木の合図でかけ声をかけて曳きまわす。

石動の歌舞伎山(有形民俗文化財)

(写真)石動の歌舞伎山

 宝暦年間(1751年〜1764年)に製作されたもので、車輪の上に框をのせ、その上に唐風の屋形(御殿)がつくられている。演技を行うときは、屋形の前柱をはずし、床の舞台を左右に引きだして広くする。奥は出入口に幕をたれて三味線、浄瑠璃方、役者の控室とする。
 出し物として「絵本太閤記・尼ヶ崎の段」「鎌倉三代記」「菅原伝習手習鑑・寺小屋の段」「御所桜掘川夜討・弁慶上使之段」「お染久松野崎村の段」などの浄瑠璃の一段が演じられた。歌舞伎の代わりに舞踊が行われることもある。
 市内に残る6基の歌舞伎山の中で、組み立てて曳きまわすことができるのは川原町に残る1基のみであり、大変貴重なものである。近年、浄瑠璃方や三味線を弾く者がいなくなり、昭和42年以降は曳かれていない。

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