指定文化財4(史跡)

前田利秀の墓(史跡)

(写真)前田利秀の墓

 前田利秀は、加賀 前田利家の弟 秀継の子で、天正13年(1585年)の大地震で両親を亡くした後、今石動城主として4万石を領した。
 文禄2年(1593年)3月、朝鮮出兵に加わるが、肥前名護屋城へ向かう途中に病にかかり、京都から引き返して療養に努めたが、同年12月19日に26歳の若さで没し、生前に信仰の厚かった日蓮宗の本行寺へ葬られた。

木槿塚(史跡)

(写真)木槿塚

 この石碑には俳人松尾芭蕉の句が刻まれている。

花無くげ裸わらわ濃かざし閑那(はなむくげはだかわらわのかざしかな)

 この句は延宝8年(1680年)芭蕉が37歳のときに詠んだものといわれている。芭蕉が今石動を訪れたのは元禄2年(1689年)のことであるため、当地で詠まれたものではない。裸の腹当てをした子供が脚を前に投げ出し、座ったまま木槿の花の咲いた小枝を空にかざしている絵が描かれた色紙を芭蕉が見て、この句を詠んだといわれている。
 美濃の俳人で、芭蕉十哲の一人である各務支考は、たびたび今石動を訪れ、観音寺に滞在して俳諧の指導にあたっていたが、今石動の俳人従古の家を訪れた際に、この芭蕉直筆の色紙をみて芭蕉をなつかしみ、「裸子よ物着はやらん瓜ひとつ」という句を詠んだことが、支考の著わした俳書『東西夜話』に記述されている。
 この句碑は酢屋方竪が享保の頃に建立したものと考えられている。当時、今石動で俳諧が盛んであったことを示す、たいへん貴重なものである。

獅子庵跡(史跡)

(写真)獅子庵跡

 俳人各務支考が今石動に滞在した際に建てた草庵の跡である。
 各務支考は美濃の出身で、芭蕉十哲の一人と称されていた。元禄14年(1701年)6月に今石動を訪れ、3ヶ月間観音寺住職 濫吹のもとに滞在し、多くの俳人を指導した。正徳5年(1715年)に自ら死んだと言いふらし、「阿難話」という追善集を出し、姿を隠していたが、実際は観音寺におり、享保2年(1717年)に建てた獅子庵を拠点に、城端・福野・井波での俳諧行脚を行い、享保5年(1720年)まで滞在していた。
 観音寺の獅子庵跡には、各務支考をしのんで獅子塚が立てられている。

砺波山古跡(史跡)

(写真)砺波山古跡

 砺波山には源平倶利伽羅合戦にまつわる言い伝えが多く、源氏ヶ峰、塔の橋、矢立山、地獄谷、膿川、巴塚、葵塚などの地名にその面影が残されている。

阿曽三右衛門供養碑(史跡)

(写真)阿曽三右衛門供養碑

 阿曽三右衛門は津沢町立ての功労者であり、貞享4年(1687年)に没したが、翁の遺徳をしのび、死後百年目の天明6年(1786年)に供養碑が建立された。碑文「南無阿弥陀仏」は宮永十左衛門の筆による。

前田秀継夫妻の墓(史跡)

(写真)前田秀継夫妻の墓

 前田秀継は加賀 前田利家の弟で、津幡城・今石動城・木舟城を守っていた。天正13年(1585年)11月29日、飛騨を震源とする大地震により木舟城は崩壊し、秀継夫妻は圧死した。秀継は曹洞宗に帰依していたので、その子 前田利秀は当時この地方唯一の曹洞宗の寺であった高徳寺を菩提寺として、北の台に夫妻の墓を築いた。
 高徳寺跡に3基の五輪塔が築かれており、向かって右は前田秀継の墓、中央は秀継の妻の墓、左は前田利秀の墓となっている。

阿曽三右衛門墓(史跡)

(写真)阿曽三右衛門墓

 阿曽三右衛門は慶長16年(1611年)、砺波郡野尻村本江に生まれた。当時、砺波郡は陸上交通の便が極めて悪く、農作物の運搬・日用品の売買には今石動か城端、井波へ行かなければならなかったため、三右衛門は各町の中間にあたる場所に新しい町を開く必要があることを説き、慶安2年(1649年)に福野町市場町立てを、慶安4年(1651年)に福光町の地子町立てを行った。
 一方、農民は藩へ納める年貢米を今石動と城端の藩蔵まで送らなければならなかったが、三右衛門は水運の利用を考え、小矢部川沿いに藩蔵を設置する許可を得た。明暦元年(1655年)に津沢御蔵が建てられ、小矢部川の本流、支流、川につながる用水路によって年貢米が運ばれるようになった。五箇山が藩に納める煙硝なども、城端を経て御蔵に一時保管され、舟により金沢に運ばれた。また、藩の専売であった塩も、伏木から小矢部川を遡って御蔵で陸上げされ、五箇山・飛騨地方へと運ばれていった。
 御蔵が建てられ、交通の便がよくなったことで人的・物的流通がさかんになると、三右衛門は藩に請願して、万治3年(1660年)に津沢町の町立てを行った。
 晩年は禅門に入って余生を過ごし、貞享4年(1687年)に77歳で没した。

竹亭焼窯跡(史跡)

(写真)竹亭焼窯跡

 安永年間(1772年〜1780年)の頃から文久2年(1862年)までの約80年間、当地の旧家 太田家三代にわたり作られた陶器の窯跡。
 太田家は十村・山廻り役を勤め、名字帯刀を許された家柄で、第20代佐次兵衛は茶の湯を好み、邸内に竹材を多く使った竹柳庵という茶室を作り、「竹亭」と号した。竹亭は安永年間の初め頃、金沢の大樋焼の窯元に師事して作陶の技を習い、邸内に窯を築いて楽焼きを始めた。
 太田家第22代伝右衛門(雅号「柳渓」)は2代目竹亭を、第23代伝三郎(雅号「柳山」)は3代目竹亭を襲号するが、文久2年(1862年)伝三郎が72歳で没した後、竹亭焼は廃窯となった。
 楽焼の窯跡と伝えられる場所が太田家邸内に二ヶ所あるが、遺構は不明である。磁器が焼かれたという俗称カツラ山の遺構がわずかに往時を忍ばせている。

勝興寺安養寺御坊跡(史跡)

(写真)勝興寺安養寺御坊跡

 勝興寺は文明3年(1471年)、蓮如上人が土山御坊(福光町土山)を開き、次男 蓮乗(瑞泉寺3代)に兼住させたことに始まる。明応3年(1494年)に高木場(福光町高窪)に移転し永正14年(1517年)に勝興寺と改号、永正16年(1519年)に末友へと移転した。当時、雲龍山安養寺御坊と称し、北国の本山同格に待遇され、砺波郡に62ヶ寺、射水郡に116ヶ寺、新川郡に81ヶ寺、合計259ヶ寺の触下と称する与力寺があり、多数の門信徒を有し、大名に匹敵する勢力を誇っていた。天正9年(1581年)、住職顕幸が織田信長との石山合戦(大阪)に出陣した際、不意をつかれて木舟城主石黒左近に攻められ、堂塔伽藍は焼失してしまった。
 天正12年(1584年)、富山城主佐々成政が守山城主 神保氏張をとおして現在の伏木古国府の地を寄進し、再興された。

宮永良蔵の碑(史跡)

(写真)宮永良蔵の碑

 宮永良蔵は宮永十左衛門の曾孫であり、天保4年(1833年)に生まれた。嘉永3年(1850年)に医学を志し、京都で開業するが、主治医として出入りしていた徳大寺卿が勤皇派の公卿であったため影響をうけ、尊皇攘夷に傾倒していく。慶応3年(1867年)、倒幕の計画に参画した疑いで新撰組に捕らえられ、西本願寺の獄舎に幽閉され拷問を受けた。数日後、釈放されたが、体が弱り、35歳で没した。
 記念碑は大正7年(1918年)11月、後世に宮永良蔵の偉業を伝えるため建てられた。

一乗寺城跡(史跡)

(写真)一乗寺城跡

 五郎丸・八伏の両集落にまたがる標高277メートルの山で、桝山、または桝形山ともよばれる山の上にあります。
 南北朝時代に越中の守護を務めた桃井直常は、たびたび幕府と敵対し、この城で幕府方と戦った記録も残っています。このことから、当城は南北朝期に桃井方の拠点として築かれたものと考えられます。
 その後、佐々成政と前田利家が戦った天正12年(1584年)〜13年には、国境を守る佐々方の支城として大改修され、部将の杉山小助などが配置されました。
 山頂部の主郭を中心に各曲輪が階段状に配置され、曲輪のへりに土塁や櫓台を設け、竪堀で中腹部を刻む構造をもっています。特に、加賀国境に面した西側は特に大規模な切岸と堀切によって尾根続きが遮断されていて、佐々成政期の「境目の城」の典型的なものとみられています。

今石動寺城跡(史跡)

(写真)今石動寺城跡

 今石動城跡は、小矢部市街地の北西に位置する城山(標高187.3メートル)の山頂部一帯に築かれた山城です。
 加越国境域における前田氏と佐々氏との戦いの中で、越中領内の前田氏の足がかりとなる城として天正13年(1585年)に築城され、前田秀継(利家の弟)・利秀父子が城主をつとめましたが、利秀の死後の文禄3年(1594年)に廃城となりました。
 前田氏による越中領有の後には、その城下町(今石動町)には町奉行がおかれ、砺波地方の政治・経済の要所としての機能を長く果たしました。
 本城跡は、県内における近世最初期の山城の実態を示しており、当時の軍事的背景や、前田氏による越中統治の政治・経済的拠点の形成を考える上で貴重な遺跡です。
 また、小矢部市の前身の一つである石動町は、本城の城下町を基礎として発展してきていることから、その成り立ちに深く関わるものとして、地域の歴史に欠くことができない重要な遺跡です。

関野1号墳(史跡)

(写真)関野1号墳

 推定全長65メートル、富山県内で最大・最古級の前方後円墳である。昭和61年の調査で前方後円墳であることが確認された。後円部は関野神社の建設の際に約3分の2が削平されており、推定径34メートルとされている。前方部は長さ31.5メートル、幅30.5メートルである。北側くびれ部より畿内布留式土器の影響をうけた土師器が出土しており、4世紀前半の築造と考えられる。畿内型前期古墳の存在は、当地域に畿内政権と結びついた勢力があったことをうかがわせる。

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